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島田裕巳著『創価学会』から学ぶ創価学会の誕生と歴代会長について

 創価学会と聞くとどういうイメージを思い浮かべるだろうか?

 

 ・過激な宗教団体

 ・選挙の時の投票キャンペーンがしつこい

 ・そもそも実体がわからない

 

 おそらくこういうイメージを持っている人が多いのではないか。まあ上の3つだけでなくその他いろんな印象を持っていると思うが。

 

 では創価学会とは私たちが抱くようにカルト色の強い宗教なのであろうか。

 

 ということで『創価学会』を読んでわかったことを書いていく。

 

 

 

初代会長牧口常三郎創価学会の誕生

 創価学会は1930年「創価教育学会」という名で始まった。

 

 教育と名がつくように当初創価学会は教育色の強い団体であった。

 

創価教育学会会則要項の第二条では、「本会は創価教育学体系を中心に教育学の研究と優良なる教育者の養成とをなし、国家教育の改善を図るを以て目的とす」と記されていた。『創価学会』p.25より

 

 なぜ宗教色よりも教育色が強いかというと、創価学会創立者である牧口常三郎が小学校で校長を務めていた影響がある。

 

 牧口は1889年に北海道尋常師範学校(現在の北海道教育大学)を卒業した。ここまではまあごく普通の人である。

 

 しかし彼はその後の人生において自分の子供を病気で失くしている。そのような影響もあり(それが直接の原因かは不明だが)、日蓮宗に興味を持ち、後に創価教育学会を創立することになる。

 

 

 以上がざっくりとした創価学会創立の流れである。

 

教祖という観点から見た創価学会と他宗教の違い

 創価学会と他宗教の違いは教祖が神がかり的体験をしているかどうかである

 

 例えばイスラム教であればムハンマドが大天使ガブリエルの啓示を受けているし、ユダヤ教であればモーセヤハウェによる啓示を受けている。

 

 一方創価学会創立者である牧口常三郎はそのような神がかり的体験をしていない。

 

 彼は教育者としてのベースをもとに組織を立ち上げたのである。

 

 このことからも創価学会は当初は宗教色が強くないことがわかる

 

教育団体から宗教団体への転換

 ではいつごろから創価学会は宗教色を強めていったのか。

 

 創価学会が宗教色を強めていったのは1940年代である。なぜ宗教色を強めていったかというと、牧口が「座談会」を重視したことに原因があると思われる。

 

 

 「座談会」は現在の創価学会でも行われている。これは会員が信仰を持つことで得た利益を話し合う感じの場である。お題目をしてこんな功徳があったみたいな。

 

 これを重視したことによって創価教育学会は教育団体から宗教色の強い団体へと転換していった。

 

二代目会長戸田城聖

 戸田城聖(じょうせい)は牧口の後を継いで創価学会の会長になる人物である。

 

 戸田は牧口と同じ北海道札幌師範学校(北海道尋常師範学校を改称)で学びその後夕張市で教師となる。その後上級の学校を目指し上京をする。現在の中央大学に入学。

 

 で、なぜ戸田が二代目会長になれたかというと、もともと彼は牧口との付き合いがあり、創価教育学会において常任理事を務めていたということがある。

 

 話は逸れるが戸田の特筆すべき点がある。

 

 今でこそ当たり前になっている塾や予備校の模擬試験による志望校の合格判定。このシステムをつくったのは実は戸田城聖なのだ

 

 戸田は関東大震災後に牧口から学習塾の経営をしないかと話を持ちかけられる。

 

 彼はそれを承諾し1923年12月に学習塾をオープン。もちろん当時は学習塾などないので先駆けとなる。

 

 そこで彼は志望校の合格判定を点数から割り出すシステムを作り、それが大当たり。模擬試験には受験生が殺到するようになった。

 

 その後彼は受験の参考書を出版。これもバカ売れでベストセラーになる。

 

 したがって現在の受験対策のベースを作ったのは戸田城聖であるといっても過言ではない。

 

 戸田は宗教家である一方、ビジネスとしての才能があった。

 

 彼は1951年に二代目会長に就任。1952年宗教法人化する。1958年死去。

 

三代目池田大作

 戸田の後を継いだのが池田大作である。名前を知っている方も多いと思う。

 

 まさに三代目J Soul Brothers

 

 池田は1928年東京都に生まれる。家庭は貧しかったという。

 

 彼は家業の海苔作りを手伝ったり、新聞配達などをしていた。高等小学校を卒業するが、病気にかかり職を転々とする。

 

 そんな中、1947年、後の小樽問答に創価学会の講師として出ることになる小平労平に折伏され池田は創価学会に入会

 

 では池田はいかにして台頭し、頭角を表し会長にまでなったのか。

 

池田が頭角をあらわすようになるのは、戸田の設立した日本正学館や、小口銀行の東京建設信用組合で働くようになってからである。日本正学館は、単行本の出版がうまくいかず、創刊した雑誌も次々と廃刊され、かなりの赤字を抱えていた。東京建設信用組合の方も、大蔵省から営業停止を命じられるなど、経営が行き詰っていた。池田は、そうした会社の経営の立て直しや、新規事業の開に奔走し、その才能を発揮した。戸田からその点を評価され、1954年には、参謀室長に就任し、創価学会の活動においても中核的な役割を担うようになる。p.92

 

 

 このような経緯があり池田は1960年に三代目会長に就任。そして今に至る。といっても今は正式な会長ではなく名誉会長である。

 

まとめ

 ・創価学会は最初は創価教育学会としてスタートする。宗教色というより教育色が強かった。

 

 

 ・1940年辺りから「座談会」を重視することにより宗教色が強くなっていく。

 

 ・1952年宗教法人化。

 

 ・現在の塾や予備校で行っている志望校の合格判定は、二代目会長戸田城聖がそのベースを作った。