日々の想いを思いのままに

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養老孟司著『バカの壁』を読んで学んだ3つの重要な点

 『バカの壁』は結構前にベストセラーになった本である。今はその時ほどではないにせよ、それでも幅広く支持されている本だ。

 

 わかりやすく書かれているので活字媒体の本をあまり読まない人にもおすすめである。

 

 ということで『バカの壁』を読んでの私なりの感想めいたものを書いていく。

 

 

 

1.わかっているようでわかっていない

 1つ目に紹介するのは、私たちは物事をわかっているようでわかっていないということだ。いや、場合によってはその物事の知識を拒絶することだってある。

 

 養老氏が本書で紹介しているのは、BBCが製作したある妊婦の妊娠から出産までを記録したドキュメンタリー番組を見ての学生(北里大学薬学部の学生)の反応である。

 

 この反応で興味深かったのは、男性と女性とで反応が大きく異なった点である女性はそのドキュメンタリー番組を見て、「大変勉強になった、新しい発見があった」など肯定的意見が多かった。

 

 一方で男性は「そんな知識は保健体育などで習った」といってまああまり肯定的にはとらえなかった

 

 なぜこのような意見の違いが見られたのか。

 

 女性にとっては妊娠、出産というのはいずれ経験することである。それゆえに番組の内容というのがとてもリアルに感じられた。そういうわけで「新しい発見があった」など肯定的な意見が出たのだ

 

 男性はというと、妊娠、出産というのは経験しないがゆえに自分たちにとっては全くリアリティのない話であるので、既に知っている知識として片付けてしまったのである

 

 こういう点において人間の知識に対する傲慢さというのが見て取れる。人は自分にとって関係のない話や都合の悪い話は遮断してしまうだ

 

 2001年に起きた同時多発テロも私たちは「知っている」わけではないのだ。あくまでもその映像を見て、ニュースなどでその情報を「知った」にすぎない。

 

 実際の現地での恐怖や痛さなどは全くわかっていないのだ。

 

 

 私たちはその知識を持っているというだけで「知っている」つもりになるが、実際のところそれは大きな間違いなのである。

 

2.「共通理解」と「個性」という矛盾

 文明というのは一般的に「共通理解」を通して発展していくものである。「共通理解」とは何かというと、「世間の誰もがわかる」ことだ。

 

 マスコミの発展によって私たちはますます「共通理解」をすることが多くなった。お互いが知っていて当たり前だよね、という知識みたいなものが増えていったといっても良い。

 

 他にも共通認識が増えたなども「共通理解」が増えたことと関連する。

 

 私たちはこの「共通理解」がないとコミュニケーションを取ることができない。お互いで共有している事柄がないと前に進めないのだ。

 

 そういうわけで文明の発展を考えるならば「共通理解」が増えていかなければならない。

 

 それにも関わらず現代では、「個性」というものが重視される。これは「共通理解」とは対極的なものである。なぜなら「個性」というのはその人自身しかもたないものであり、他者と共有するものではないからである

 

 このギャップの被害をもろにくらうのは社会人になってからである。本来会社や公務員などの組織というのは「共通理解」をしなければ成り立たないものだ。

 

 お互いに共通するものを見出し会社を発展させたり、公務員は業務に遂行することができる。これはビジネスマンならわかっていることだろう。

 

 それなのに唯一無二の「個性」を発揮すると組織というのはバラバラになる。考えてみれば当たり前なのに、世間はなぜか「個性」を発揮させなければならないという矛盾めいたものになっている。

 

 しかもその「個性」を伸ばすことは義務教育の段階から既に始まっている。本来重視しなければならないのは「共通理解」なはずなのに、「個性が大事」という声高に叫ぶ学校。

 

 これでは子供たちが不幸になってしまう。

 

 では「個性」は抑圧されるものなのだろうか。

 

 それは違う。「個性」というのは勝手に伸びていくものである。それはわざわざ教育なぞしなくても(実際はしているが)、勝手にその才能が開花していくのである。

 

 松井秀喜氏やイチロー選手などはその例である。昨今ではスポーツの分野にとどまらず学問の世界にもそれが顕著に出てきている。

 

 

 そう、個性というのは教育するものではなく、気づくと伸びているものなのである。

 

3.合理化の末路

 現代では労働や家事、あらゆる事が効率的、合理的に行われてきている。このことは一見すると幸福であるように思える。

 

 以前は10人でやっていた仕事を設備投資によって1人でできるようになったり、家事などは食事や洗濯はボタン1つで大抵できるようになった

 

 仕事の合理化によって、人が余るようになったのだ。10人のうち9人は何もしなくても良いことになった。

 

 しかしそのことによって人間が幸福になったかというとそうではない。なぜか。

 

 それは余った時間で何をやるかみんなわからないので、結局路頭に迷うことになってしまったのだ。定年後の「モーレツ社員」を思い浮かべればよくわかる。

 

 彼らは現役時代は自分の業務に対し熱烈な意欲を持って仕事をしていたが、いざ定年して退職すると何もやることがなく、無気力な日々を送っている人が多い(と思う)。

 

 自分のタスクは考えていたが、そのタスクがなくなった後の人生を全く考えていなかったがゆえにこのような状態が生じてしまったのだ。

 

 したがって私たちが考えなければならないのは仕事を合理的、効率的に考えていくのはもちろんだが、仕事がなくなった後に何をするか、ということである。

 

 これからはAIの導入によってますます余暇の時間が増えていくことだろう(と言いたいが、既得権益を守りたがる愚か者によって余暇が増えないかもしれない)。

 

 その時に備え、今自分に何ができるかということをしっかり考えていく必要がある。

 

 

 もう組織に依存する時代ではないのだ