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学校という教育機関が不要だと私が考える3つの理由

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 久々に書く内容がややセンセーショナルである。私はここ数年で一層学校という教育機関が不要なのではないか?と思うようになってきた。

 

 なぜかというと、ここ数年の教育は露骨に文科省による思想の統制が強くなってきたからだ。

 

www.whatithinkandfeel.net

 

 ただ、それ以上にもっと根本的な部分で学校という教育機関が不要だと感じる点がある。そのことを今日は書いていく。

 

 

 

1.勉強するのに時間と場所は関係ない

 ここ数年の教育産業の発展は目覚ましいものである。スタディサプリはその良い例だ。他にも進研ゼミなどのタブレット教材の充実なども挙げられる。

 

 もちろん電子媒体だけでなく、紙媒体の参考書や問題集もかなりクオリティが高くなっている。

 

 このように昔とは比較にならないほどに自分で勉強できる環境が整っているので、学校で勉強することの意味はほぼなくなってきているスタディサプリは月額980円(税抜)でしかも一流の講師の授業を受けることができる。これほど充実した学習ツールは他にないだろう。

 

 かつては上記のような教育産業が発展途上であったので、どうしても学校で勉強しなければいけないという考えが強かったように思える。

 

 ゆえに勉強するのにどうしても時間と場所の制約があった。

 

 みんな同じ時間に同じ場所に(つまり学校)、同じメンツと一緒に勉強しなければならなかった。

 

 しかしこのような勉強スタイルは極めて非効率である。みんなが同じ授業を受けるということは、ある生徒は教師の言っていることが理解できない一方で、別の生徒は教師の言っていることがつまらないと思うくらいに理解が進んでいる、という事態が生じる。

 

 これでは生徒それぞれに合った学力をつけさせることは困難である。

 

 その点現在のスタディサプリや進研ゼミ(Z会とかも)は生徒1人1人に合った教材を提供できる。なおかつ自分のペースで進めることができる。

 

 そういうわけで、学校で勉強するよりもむしろ自分で勉強するほうが効率が良いし、理解もはかどるわけである。学校で勉強することの重要性は低いと言っていい。

 

 それなのに、だ。

www.asahi.com

 

 いまだに国はこのようなことをやっているのだ。重要なのは置き勉を認めることではなく、タブレットなどを活用して教科書の量を減らすことだろう

 

 大学入試はやたら変えたがるのに、このような身近な問題は変えようとしないなんて笑止千万である。教育現場を知らない受験勉強に秀でたデスクワーカーが机上の空論を交わすからこんなことになるのだろう。

 

 したがって(!?)学校で勉強するよりも自分で勉強をする方が理解が進むし、自分のペースでこなせるので独学の方が生産的で効率的である。

 

 

  そのような理由から学校で勉強する意味はほぼなくなったと言ってよい。

 

2.教師の質の問題

 学校の教師は、特に公立ではよほどおかしなことをしない限りクビにはならない。

 

 クビになる恐れがないということは当然競争が起こらない。競争が起こらないということは授業のパフォーマンスを高める必要がない。

 

 つまり授業の質が高くならないのだ(もちろん中には良質な授業をする方もいるが)。そうなると困るのは生徒である。ただでさえ同じ時間に同じ場所で同じメンツという非効率な環境で勉強しているのに、それでいて教師の授業の質も低いということになると、生徒にとっては有害無益でしかない。

 

 根本的なことを言ってしまうと、教師は授業のパフォーマンスを上げる時間がほぼない。なぜかというと部活の存在があるからだ。

 

 ただでさえ授業の質を高めることはかなりの時間を要するのに、そこに部活動が入ってしまうのだ。しかも教師は専門外の競技の部活動を持たされることもある

 

 そうなるとその専門外の競技の知識、技能を習得する時間が必要になる。

 

 かくして教師は全く自分の授業の質を高めることができない日々を送ることになる。

 

 そのような状態の教師が授業をしても生徒の学力を向上させることはできない。

 

 

 したがって競争が起こらない環境(私立であれば話は違ってくるかもしれないが)とそもそも授業の質を高める時間が十分に確保できないことから、教師の授業のパフォーマンスは向上することがない

 

 それゆえ生徒は学校の授業ではなく塾や予備校などで勉強することになるのだ。

 

3.マイノリティーの排除

 本の学校はそのシステム上マイノリティを排除するようにできている。何かの才能に突出した人よりも、全体的になんでもでき周りの人と同じように振る舞う人が良しとされる。

 

 ゆえに少しコミュニケーションに難ありの人がいればADHDという診断結果を出す。

 

 本来人間というのは得意な事もあれば不得意な事もある。コミュニケーションを取ることが不得意な人や場の空気の読み方がわからない人がいたところで何らおかしなことではない

 

 だからといって彼ら彼女らは無能かと言えばそんなことはありえない。コミュニケーション以外に何か秀でる才能を持っている。いや、別に秀でた才能を持っていなかったところで別に何の問題もない。それが人間というものである。

 

 だが、日本は特にそのような周囲の人と違う人を排除する傾向がある。それは日本人である私たちが1番よくわかっているはずだ。

 

 殊学校という空間になると、そのような周囲の人と違う人は排除される。重要なのは彼ら彼女らの才能を見出しそれを発揮させることなはずであるのに、みんなと同じ振る舞いができないからといって邪魔者扱いをする。

 

 こんなことをしていたら、当然イノベーターなんてでてこない。というかわざと突出した才能を持ったマイノリティを排除しようとしているようにさえ感じる。自分たちの既得権益を守るために。

 

 こういう風にして日本では「サイレントマジョリティー」が大量生産される。その集大成が就職活動である。

 

 本家「サイレントマジョリティー」のごとく「人があふれた交差点」で「似たような服」を着て、「似たような表情」で面接に臨む

 

 このような「サイレントマジョリティー」は日本の教育を如実に表している。諸外国の人からみればまさにエコノミックアニマルである。

 

 そこに自らの哲学やイデオロギーは存在しない。大事なのは周囲と同じこと。哲学やイデオロギーを持とうものならすぐに淘汰される。

 

 日本の教育はマイノリティーを排除し、周囲と同じ人間に仕立てあげ、社会に出荷するという役割を担っているのだ。

 

 そう考えると、私たちは社会を「うまく回すため」に利用されている、と考えることもできる。そのせいでマイノリティは排除されていくのである。

 

 そのような教育機関は私たちにとって必要なのだろうか。そう思わずにはいられない。それゆえに私は学校という教育機関が不要だと考えるのである。

 

 マイノリティを排除し、画一的に仕立て上げる教育が最善だと私には思えないのだ。

 

 

 以上述べてきたことが、学校という教育機関が不要だと考える理由である。