ニート系人間が思うこと-Je ne pense pas que je suis NEET

ブログで書く内容は雑記、教育、英語、カラオケ(たまに)などです。ニート系であって純粋なニートではありません。

内田良著『教育という病 子どもと先生を苦しめる「教育リスク」』から学校行事と部活動の問題点を考察する

 ・部活を辞めたい

 

 ・学校行事なんて意義があるのか

 

 学校における部活動や行事は全ての生徒を満足させるものではない。それらのイベントを楽しみにする生徒がいる一方で、楽しみにしない生徒もいる。いや、むしろ嫌っているといってもいいかもしれない。

 

 ゆえに上記のような「部活辞めたい」や「学校行事に意義なんてない」というような意見が出るのだ。私たちはこのような意見をもつ人々に耳を傾けなければならない。

 

 これらの意見を聞くことで学校というものの負の側面を見出し、それを改善していく運動につながるからだ。

 

 では本題に戻ろう。なぜ部活動を辞めたいという生徒が出たり、学校行事に意義を見いだせない子がいるのだろうか。

 

 

 

学校行事の問題点

 学校行事はリスクを軽視しがちである。運動会などでよく行われるものとして組体操がある。

 

 一般的に組体操は高い段を築くほどに感動を生む。生徒が努力をし、巨大ピラミッドのごとく9段なり10段の「人間ピラミッド」を形成すれば、見ている人(つまり保護者)は感動せずにはいられない。

 

 確かに9段、10段の「人間ピラミッド」は見ていて壮観である。生徒たちの「努力」が最も感じやすいからだ。

 

 だが、「人間ピラミッド」はどれほどの負担になるのか考えたことがあるだろうか。10段の「人間ピラミッド」を築くというのは当然下の耐えている生徒に大きな負担がかかる。

 

 それだけでなく上の生徒もバランスを維持することの困難さゆえ、崩れてしまう危険性がある。

 

 そのような事故というのは実際に起きており、重症になったり、大きな後遺症を残したりしている。

 

 それにも関わらず、学校ではそのような危険に対するリスク管理が徹底されていない。大けがをする危険性があるにも関わらず、だ。

 

 学校側はリスクよりも「感動」を狙っている。その結果、子供たちは「感動」の犠牲者になっているのである。

 

 他にも二分の一成人式という行事がある。これは生徒が小学4年生、つまり10歳になった節目を祝う行事である。実施するか否かは学校の自主的な判断に委ねられているらしい。

 

 具体的にどのようなことをするかというと、繰り返しになるが10歳の節目を祝い、生徒が将来の夢を語ったり、今まで育ててくれた保護者に対して感謝する

 

 このイベントを行う上で前提となっているのは親と子が良好な関係を築けているということである

 

 だからこそ感謝の意を述べたりすることができる。

 

 だが、全ての家族が良好な関係を築けているわけではない。良好な関係を築けている一方で、親から虐待されて精神的に傷ついている子供もいる。

 

 家庭によっては精神的なダメージを受けている子がいるのに、家族に感謝をしようなどというイベントなんてやってしまったらどうなるだろうか。

 

 もはやその子供は行き場を失うのではないか。

 

 学校行事の問題点とは結局のところ物理的にも精神的にもリスクに対する管理がなっていないということになる。感動という大義名分の下、一部の生徒たちが犠牲になっているのだ。

 

 

 そう考えると、学校行事には意義があるとは言えない。

 

部活動の問題点

 部活を辞めたいという声は後を絶たない。本来部活動というのは生徒が好きだから始めたはずなのに。だが、事態は私たちが思っている以上に複雑である。部活の問題は生徒だけでなく、その部活を受け持つ顧問(つまり教師)も関係するからだ。

 

 部活動の問題を考えると、体罰がある。これは顧問や先輩などから受けたという人も多いだろうと思う。自分の至らなさゆえ、顧問や先輩などから殴られた、みたいな経験はスポーツの強い高校に通う生徒なら受けたことがあるだろう。

 

 体罰が起こってしまう前提にある考えは何だろうか。それは体罰を加えるのは良きこと」という前提である体罰を加えることによって生徒の身が引き締まるという考えが多くの顧問や先輩にあるのではないか。

 

 しかし体罰は立派な暴力である

 

 実際に体罰によって負傷する生徒だっている。それに大阪の桜宮高校の顧問の「暴力」は記憶に新しいはずだ。顧問が生徒に暴力を加えることで生徒は結果自殺してしまった。

 

 体罰によって犠牲者が出てしまっているのだ。

 

 現在は体罰に関する問題がこのようにおおやけになってきていのるので、それに関する指導、リスク管理は厳しくなってきているが、いまだに顧問や上級性から「愛情」という名の体罰を受けている生徒もいるだろう。

 

 しかし体罰は正当化されるべきものではないのである

 

 

 部活動の問題点としてもう1つ、教師の負担の問題がある。日本の部活動は、とりわけスポーツ系の部活動はほぼ休みがないうえに土日も行われている。

 

 これは生徒にも負担を及ぼすが、同時にその部活を受け持つ教師にも大きな負担がかかる。

 

 日本では公立の学校の教師は多くの場合、部活を受け持つことになっており、しかも自分が専門外の競技の部活を持たなければならないこともある。

 

 長時間、それも土日まで使って自分の専門外の競技を生徒に教えなければならない。

 

 教師にとってこれほどの負担はない

 

 本来教師であるなら、部活動ではなく本業のパフォーマンスを上げることに時間を使わなければならない。

 

 考えてみれば当たり前である。

 

 しかし日本ではこの当たり前のことができる環境が整っていないのだ。部活動という美名のもとに。

 

 したがって今しなければならないことは教師の負担を減らすことではないのだろう。

 

 さらに言うと、部活動で専門の知識がない教師に教えられる生徒も被害を食らう。

 

 これほど問題は混在しているのにも関わらず、日本ではまだ十分な対策が行われていない。

 

 教師の負担を減らし、本業のパフォーマンスを上げさせるための時間を確保させるような環境作りをしていかなければならない

 

学校行事と部活動の問題からわかること

 日本の学校行事や部活動からわかることは全くリスク管理が徹底されていないということである。

 

 学校行事における組体操や二分の一成人式は生徒に物理的、精神的なダメージを与えてしまうことがある。

 

 部活動においては体罰の問題や教師の負担の問題がその最たる例である。

 

 なぜリスク管理が徹底されずこのようなことが平然と行われるかというと、それらは感動を生むからである

 

 組体操は生徒がけがをする状態に確率が高ければ高いほど(つまりより高い「人間ピラミッド」を形成する)ほどに聴衆に大きな感動を与える。

 

 二分の一成人式は全ての生徒の家庭環境が良好であるという前提の下で行われ、大きな感動を生む。

 

 部活動における体罰、教師の負担問題、休みなく練習を続けたという事実によって私たちは感動する(その部活が勝てばの話だが)。

 

 これらの例からわかるのは私たちは感動を求めることを優先し、そこに潜むリスクを軽視、あるいは無視しがちになっているということだ

 

 確かに感動することは人生において大きな意義があることだ。しかし、そのことによって何らかのリスクが生じるということも忘れてはいけない。

 

 感動の裏側で必ず誰かが犠牲になっているのである。

 

 感動は誰かの犠牲の上に成り立っているのである。

 

 学校はその事実を直視しなければならない。ポピュリズムに迎合するのではなく、そこにどのような問題が存在するのかをしっかりと考えていかなくてはいけない

 

 

 そうしなければ日本の教育は相変わらず進歩しないままであろう。