ニート系人間が思うこと-Je ne pense pas que je suis NEET

ブログで書く内容は雑記、教育、英語、カラオケ(たまに)などです。ニート系であって純粋なニートではありません。

自殺の抑止方法

 以前にも自殺に関する話題は書いたが、その時はまだ文章レベルがへぼかった(今もだが)。なので文章を書くことに慣れた今(と言いつつまだ文章力がへぼいが)、再び自殺に関する記事を書こうと思う(文章がヘボイので過去記事は貼らないよ!)。

 

 あと前回の道徳に関する記事が思いのほか反響があった。なんと教育大の方も読んでくれていた。ありがたい。とは言いつつ、あまり読者層は意識せず満遍なくニート野郎のブログを書いていくので、話題がとっ散らかるがご了承いただきたい。

 

 「星野君の二塁打」に関する話題を書いていた方のブログも本当に有益な情報であった。だからブログはおもしろいのだ。

 

 さて、最近ご当地アイドルが自殺したらしい。そのことに芸能人が発言したことでなんだかいろいろ波紋を呼んでいるそうだ。

 

 だが、本来考えなければならないのは、どうしたら自殺者を減らすことができるのかということである。

 

 そのことを考えることなしに自殺の報道をしても、自殺者が減ることなんてないのだ。なので具体的にどうすれば自殺者を減らすことができるか考えていく。

 

 

 

自殺者を減らすもっともよい方法

 自殺者を減らすための最もよい方法、それはマスコミが自殺に関する報道をやめることである。テレビも新聞もインターネットもラジオも。あらゆるメディア媒体が自殺の報道をやめればよい。

 

 なぜかといえば自殺をしようと考えている人が学習してしまうからである。どういうことかというと、自分が自殺をする→それが報道されることによって世間に知れ渡る→そのことによって自分がどんなにひどい目にあったかを知らしめることができる→同時に加害者、あるいは組織(会社や学校など)を世間に知らしめるという形で「復讐」することができる。

 

 このサイクルを学習してしまうのだ。自殺を考えている人は自分が自殺してそのことが報道されれば加害者を世間に知らしめる「復讐」ができると考えてしまう。

 

 この連鎖を止めるためには自殺に関する報道を自粛すべきなのだ。報道されなければ、自分が自殺したところで世間に知れ渡ることはない。自殺によって相手を復讐するという発想がそもそも生まれない。

 

 それゆえに自殺の報道はやめるべきなのである。だが、中にはこう主張する人もいるだろう。

 

 「世間に自殺に関するニュースを流すことで、その学校・会社の悪態を皆に知らせることができる。そのような問題提起をすることで、これまでの組織や人間の悪しき風習を改善していくことができるのではないか

 

 

 確かにそうであるが、「自殺しようと考えている人が学習してしまう」という現実から避けることができないのも事実である。

 

 したがって本当はマスコミが自殺に関する報道をやめるのが効果的なのであるが、現実は難しいだろう。自殺や犯罪に関するニュースは数字を取ることのできる話題だ。ゆえにそれを排除するということは考えにくい。

 

 ではもっと良い方法はないのか。

 

逃げることの正当性を教えさせる

 「ヤバくなったら逃げる」、このことに尽きる。逃げることは生きていく上で必要な能力のうちの1つである。当たり前の事実であるが、特に日本人は逃げることに悪い印象を持っている。

 

 ウサギがライオンから逃げずに正々堂々と戦ったらどうなるか。子犬が土佐犬ドーベルマンと戦ったらどうなるか。こんなことしたら命なんてない。

 

 のび太ジャイアン素手でケンカしたらどうなるか。ぶち殺されるに決まっている(例がおかしい!?)。のび太ジャイアンにリベンジできるのはまず「戦略的撤退」をし、ドラえもんの道具で「武力」を備えて力のレベルをジャイアンと同等、あるいはそれ以上にできるからだ(!?)。

 

 なので逃げることは悪いことではなく生きていくために必要な行動なのだ

 

 

 ただ仏教的なカルマの考えを持っている人は、「逃げ続けていても『カルマ』から逃れることはできない。だから逃げずに向き合うべきだ」と主張するだろう。

 

 確かに一理ある意見ではあるが、逃げずに突っ込んで死に至るよりは、逃げてひとまず命を確保することのほうが重要である。逃げたらまた道が開かれるが、死んでしまったらもう道はない。

 

 やばかったらその都度逃げる。それでまた問題に直面すれば逃げる。人生なんてそんなもんじゃないのか。もし逃げずに向き合って対処できるなら対処すればいい。それだけである。

 

 逃げるという選択肢は常に持っておくべきである

 

逃げたところで人生が終わるわけではない

 当たり前だが、逃げたところで人生が終わるわけではない。いきなり心肺停止したりすることなんてない。いきなり目の前が真っ暗になって死ぬようなことなんてありえない。

 

 私だって会社を辞めたが普通に生きている。だからこうしてブログを書いている。もし会社を続けていたら、自殺まではいかないまでも精神を病んで絶望的な日々を過ごしていただろう。

 

 なので逃げたところで、会社を辞めて人生が終わるわけではないのだ。むしろ辞めることによって新たな道が開かれるかもしれない。これまで自分が望んでいたことをやれるようになるかもしれない。

 

 辞めた方が人生がより良い方向へ行く可能性を秘めている。

 

 思いつめて自分に合わない組織に居続けるのは精神的にも肉体的にもよろしくないのだ。やばいと思ったら逃げよう

 

生きることに意味を求めない

 現代では特に存在することに意味を見出したがる人が多いように感じる。「自分はなぜ生きるのか」、「自分が存在する意味はあるのか」、「そもそも生きてて意味なんかあるのか」など。

 

 だが、こういうことを考え出すと、「じゃあ生きている意味なんてなかったら死んでしまったほうがいい」みたいな結論になってしまわないか

 

 

 そうなってしまうと自殺という選択肢が出てしまうのだ。したがって生きることに意味を求めたところでロクな結果にならないのだ。

 

 生きることに意味なんてない。ただ適当に生きているだけで十分なのである。

 

 ただこう考えるのは結構難しかったりする。なぜか。それは自分の周囲のものが意味のあるもので満たされているからだ。最たる例が都市化である。都市化は身の回りのものを意味のあるもので満たそうとする。

 

 でこぼこな道路を舗装されたものにし、自然をぶった切り、人々の欲望を満たすビルディングで埋め尽くす。それらの過程で意味のないモノは排除されていく。

 

 都市化が良いか悪いかは別にして、都市化それ自体は意味のあるもので埋め尽くそうとするのだ。そのような環境で生きていたら、そりゃ意味のない存在は許せなくなるだろう。

 

 その行きつく果てが自殺なのだ。

 

 そういうわけで私たちは自分が生きている意味を考えずにはいられない状態になるのである。

 

 それでも私たちが生きていることに何か特定の意味などない、ということを自覚しなければならない。都市化の中でそう認識するのは難しいが、私たちは生きていることそれ自体には何の意味もないのだ。

 

 生きていることに意味なんか求めなくなれば逃げることなんて簡単にできるようになる。それはある種のプライドが消失するからだ。逃げられないというのは確かに逃げることになにかうしろめたい気持ちがあるのは否めないが、同時にプライドも邪魔しているように思える。

 

 「俺は(私は)辞めてしまったら社会的地位や収入などを失ってしまったら、生きている意味なんてなくなってしまう。だから辞められない」みたいな(ほら、生きている意味をここでも求めている)。

 

 おかしなプライドを捨てるというのも逃げることに必要なことなのである。

 

 もしこのことに納得いかなければ『Tomorrow never knows』を聴け!

 

 誰かのために生きても所詮Tomorrow never knowsなのだ。