ニート系人間が思うこと-Je ne pense pas que je suis NEET

ブログで書く内容は雑記、教育、英語、カラオケ(たまに)などです。ニート系であって純粋なニートではありません。

教育における道徳は必要か

 学校教育において有害な「勉強」がある。それは道徳だ。もうこの時点で私が道徳というものに対して否定的なのがわかるだろう。

 

    こんなおかしな話が学校の教材としてごく普通に扱われていることに驚いたのだ。

 

 「星野君の二塁打」の話はざっくりいうと、星野君が監督のバントのサインを無視して打った結果、それが二塁打になり、結果チームが勝利した。

 

 ごく普通に考えれば、考えることは2通りある。

 

 1.星野君の判断を評価すべきか

 

 2.監督の指示を無視した星野君を批判すべきか

 

 本来ならこの2通りの良し悪しを考えさせるのが、ごく一般的な教育と言えよう。だが、「道徳」の授業ではサインを無視した星野君を非難するような内容になっているという。要するに星野君が悪いという話になっている。

 

 このことから、国家が国民の思想を統制しようとしていることがわかる

 

 愚民化政策ここに極まれり

 

 である。2020年の大学入試改革も国家に従順な受験生が合格しやすいシステムになるだろう。星野君のように監督の言うことを無視するような人材は国家にとっては不都合なのだ。国家が目指しているのは「一億総活躍社会」ではなく、「一億総無思考社会」なのである

 

 ということで本題に入ろう。

 

 

 

教育に道徳は必要ない

 「星野君の二塁打」の例から、現在の日本ではごく普通に思想の統制を行ない、「考えない人材」、「上の言うことにたいして盲目的に従う人材」を養成していることがわかる。

 

 このことから、教育における道徳は生徒に生きていく上での社会規範を教えることではなく、国家にとって都合の良い人材を育成することを「目的」としていることである。

 

 そのような目的のために道徳が行なわれている以上、教育における道徳は、有害無益であることは明らかだ

 

 そもそもどうして学校という単位でそのようなものを教えなければならないのかが疑問である。道徳というのは本来は家庭環境や地域のコミュニティ、人との関わりの中で身につけていくものではないのか。

 

 学校のような座学ではなく、自分自身が直接体験することで初めて道徳という社会規範は身につけられるものである。「星野君の二塁打」だってそうである。自分がその当事者でなければ、リアルな理解をすることはできない。

 

 監督の指示か、自分の判断か、どちらを優先させるか自分自身で迷い葛藤することで、道徳的な規範を身につけることができるのだ。

 

 

 それをいちいち教育現場で、しかも座学で「星野君が悪い」という意見で話を進めるとは笑止千万だ。これではスタンドからヤジを飛ばす人間と全く同じである。

 

個人の「道徳」は評価すべきなのか

 どうやら今年度から道徳が正式に教科化されたらしい。ということは評価の対象になったことを意味する。

 

 根本的なことを考えてみよう。個人の「道徳」をなぜ学校が評価するのだろうか。これって個人の心を統制してしまうのではないか。評価の対象となる以上当然「ある程度の答え」が求められることになる。

 

 これでは自分で考えるよりも手っ取り早く「答え」を覚えてしまったほうが良い評価を得られるようになってしまう。もし求められている答えと違う答えを言ったらたちまち異端視されてしまうのではないか。

 

 「個性を伸ばせ!」と言いながら、実際に求めているのは画一的で全体の和を乱さない人材という国家の思いが見て取れる。思考力の強い人材が生まれてはいけないのだ。

 

 

 そのようなしっかりと考える人が増えてしまったら、自分たちの地位が脅かされてしまう。そういう魂胆なのである。

 

ポエマーを大量生産してしまう恐れ

 道徳ってはっきり言ってしまうとキレイごとである。「みんなと仲良くしましょう」、「みんなと力を合わせましょう」、「星野君の二塁打」にみられるような「言われたことをしっかり守りましょう」などこういう類いのものばかりである。道徳は。

 

 こういうキレイごとを「真面目」に勉強してしまうとどうなるか。やたらと言葉が軽いきれいごとばかりならべる人が増えることになる。ポエマーが大量生産され、大量発生する。

 

 言っていることは正義感に満ちていて、間違ってはいないんだけど言葉に重みがないような人が増えてしまう。要は「チープなJポップの歌詞」みたいな発言をする人が増えてしまうような気がする

 

 

 個人の好みで申し訳ないが、私はこういうやたらと発言が軽いポエマーが無理な人間である。なぜかと言えば(なんか理由を述べるのもバカらしいが)、そもそも政治家のキャッチコピーがいちいちポエムだからだ。もちろんこれだけではないが。

 

 「一億総活躍社会」、「働き方改革」、「生産性革命」、「全員野球内閣」、ぶっちゃけどれも意味がわからない。

 

 これ以外にもいろいろ「ポエム言語」はあるのだけど、正直言って国民をバカにしているのかと私は思ってしまう。もちろん道徳をこんなにも重要視している時点で国民をバカにしていることは間違いないのだけど。

 

 国民をバカにする意図がないとすれば、上記のキャッチコピーを考える人は、純粋に頭の中がポエムなのだろう。芸術的感性は確かに優れているが、政治という世界ではその才能は不要である。経済や外交は「ポエム脳」ではできない。

 

教育に道徳を持ち込むと…

 教育に道徳を持ち込むと、上の人間に対して従順で、無思考な、それでいてポエマーな人があふれかえることになる。

 

 こういう人たちは、旧態依然とした組織の中では絶大なる力を発揮するかもしれない。旧態依然とした組織では忖度する力、考えないで人の言われたことを聞く力が重要になってくるからだ。

 

 そういう人たちが出世をし管理職になったらどうなるだろうか。組織全体が「無能なポエマー」で跋扈することになる。「無能なポエマー」は忖度は得意だが考える力がないので仕事の生産性を上げる方法なんて知らない。

 

 こういう社会を私たちは望んでいるだろうか。

 

 もちろん望んではいないだろう。当たり前である。だが、道徳というものを教育現場にもちこんで学習なんかさせると、「無能なポエマー」が支配する「ポエム国家」が誕生してしまうのだ。

 

 「無能なポエマー」になって自分だけが困るならまだしも、全体に迷惑が掛かってしまう。もちろん思考力がないのでそのような自覚がない。

 

 このようなタイプは厄介だ。無自覚なので当然反省することもない。いや、ポエマーじゃなくても生きていれば結果人に迷惑をかけてしまうものである。なので私たちが寛容になればいいのであるが、「無能なポエマー」が幅を利かせるような社会は誰も望んではいないだろう。

 

 そういえば林先生の初耳学で無能な人ほど出世する、みたいなことをやっていたが、これって結局「無能なポエマーの連鎖」ではないだろうか。

 

 現在でもこのような状態なら、道徳教育によって事態はさらに悪化するだろう。

 

 国が道徳を用いて恣意的に思想を統制してはいけない。こんなことをすればおかしなことになるのは誰が見ても明らかなのに、それでも強行して道徳を重視したがるのは、国民が無知になってくれれば自分たちがラクできるという考えなのだ。

 

 「星野君の二塁打」を学んで生徒たちは『MAJOR』の茂野吾郎の生き様に何の感銘も受けないだろう。