ニート系人間の思っていることと感じていること

大学中退歴ある人です。再受験してmarch(英語系の学部)のどこかに入学し卒業しました。根がニートです。ただひたすらに思うことを書きます。

良い状態の時こそ備えが必要である

 人は運気の良い時や人生ノリノリの時は、それまでの苦労や努力を忘れ派手に騒ぐ傾向がある。

 

 その結果次に災難が襲ってきた時にどうすることもできずに無力になってしまう。

 

 私は大人たちが言う「将来ラクするために今苦労するんだ!」という言説にかねがね疑問を抱いていた。苦労はするけどそれに甘んじてラクをし、現状に甘んじるから人生何度も不要な苦労をするのではないかと。

 

 結局歴史と同様、人間も同じことを繰り返すのである

 

 

 

苦労をしその後バブリーして結果はじけたニッポン

 私はhey sayに生まれたので高度経済成長やバブルの時の人々の生活状況はわからない。知っているのはあくまでも教科書やテレビなどの情報で得たものにすぎない。

 

 なのでこれから述べることはもしかしたら違うかもしれないが、ご了承いただければ。

 

 戦後の復興というのは大変な苦労であったと思う。あんな焼野原を一から立て直そうだなんて相当な労力があったはずだ。

 

 だが、当時の人々の必死の労働の結果、次第に焼野原が都市化され、それと同時に生活も豊かになっていった。苦労をした人間が報われるのは当然のことである。

 

 生活の豊かさは次第に浸透していき、大半の人がその豊かさを享受できるようになった。オイルショックなどもあっただろうが、これがバブリー前ぐらいの状態だろう。

 

 で、80年代になり日本はバブリーになった。どうやら今の若い人からすると信じられない金の使い方をしていたそうな。それでも金は湯水のように入ってくるので、湯水のように使えたらしい。

 

 しかし、そんな生活をしていたらどこかでやばいことになるのは当然のことであり、結果としてバブルがはじけた

 

 

 イケイケの時に金を使いまくっていたので、手元にはほとんど金は残っていないという事態を招いてしまった

 

 これがもしイケイケの時でも堅実な生活をしていたら(たまにハメをはずしつつ)、日本、ひいては国民の生活はもっとマシなものになっていただろう。

 

受験就活就職におけるラクをするために苦労をするという言説の欺瞞

 受験や就職に関することが「将来ラクをするために苦労をしろ」という言説の欺瞞さを表していると感じる。

 

 高校受験や大学受験においてよく聞くのは「大学(高校)に入れば楽しい生活がまっている。だから、今苦労して勉強するんだ」みたいな説教である。

 

 今はさすがにこんなことを言う人や塾などはあまりないと思うが、この発言も「ラクをするために今苦労する」ということの典型例だろう。

 

 もちろん高校に入って楽しみまくり勉強なんてしなかったら、受験は失敗するし、大学に入ってひたすら楽しんでばかりいたら、将来どうなるかわかるだろう。

 

 これは就職においても全く同じだ。大学側は安定した企業、公務員への道を学生におススメするが、今は安定した企業なんてないし、公務員もAIなどの影響でどうなるかわからない。

 

 そもそもそういう身の安泰がある程度確保されば環境にいれば確かにクビちょんぱにはそうそうならないかもしれないが、それと同時に自由がはく奪される

 

 

 この現状を変えたければ自分でどうにかするしかないのだ。

 

安定している時こそ備えとそ努力が必要である

 このように自分が安定していることに安心していると、バブルの時のように思いっきりはじけたり、受験に失敗したり、就職や公務員という安定した職業の名の下、自由をはく奪され飼い殺される生活が待っている

 

 したがって、日々鍛錬を怠らずに努力していくことが重要である。

 

 というより大人のいう常識というものに疑いを持たなければならない。一見すると良いことだと思えることが、間違っているということが多い。

 

 なので、自分でしっかりと考え、行動していったほうがええで。 

 

 

 

 

 

 

 

日本人は英語「だけ」ができないのではない

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 「日本人は英語ができない」とよく言われる。しかし、日本人は英語だけができないのではない。 

 

 それは社会に出るとリアルに実感する。まず基本的な漢字の読み書きができない人が一定数いる。別に難しくもないごく普通の文章の読解に手こずる人も一定数いる。

 

 算数のごく単純な計算もできない人もいる。

 

 これって英語ができない以前の問題なのではないだろうか。

 

 

 

国語・数学・英語のセンター試験の平均点の推移

 まずは試験の点数という視点から、果たして英語だけができないのかをみていこう。

 

 2014年度センター試験の平均点→国語:98.67 数学IA:62.08 ⅡB:53.94 英語:筆記:118.87 リスニング:33.16

 

 2015年度→国語:119.22 数学IA:61.27 ⅡB:39.31 英語:筆記:116.17 リスニング:35.39

 

 2016年度→国語:129.39 数学IA:55.27 ⅡB:47.92 英語:筆記:112.43 リスニング:30.81

 

 2017年度→国語:106.96 数学IA:61.12 ⅡB:52.07 英語:筆記:123.73 リスニング:28.11

 

 2018年度→国語:104.68 数学IA:61.91 ⅡB:51.07 英語:筆記:123.75 リスニング:22.67

 

 ー河合塾のサイトを参考

 

 

 2014年から今年の平均点を書き出した。平均なのでものすごくできる人とやべーぐらいできない人の点数がごちゃごちゃになっているが、一般的なデータとして用いるには有効だと思った。

 

 平均点の推移を見てみると、英語だけがダントツでできないわけではないことがわかる。言い方がややこしいのでもっとわかりやすく言うと、国語も数学も英語も似たり寄ったりである。

 

 センター試験という受験生が受ける試験ではあるが、英語だけができないというわけではないということはわかっていただけただろう。

 

国語ができないという不可思議さ

 最初でも述べたが社会には漢字の読み書きができなかったり、普通の文章をまともに読解できない人がいる。

 

 センター試験においても国語という科目はとりわけ高い平均点が出ているわけではない。しかも高得点(160点以上)を出している人は受験関連の情報を見てもあまり多くない印象を受けた。一方英語の方は「180点とった!」という人が結構多い気がする。

 

 このような事実から、実は英語以上に国語の方ができないのではないかという考えが導き出せる。なぜこのようないびつな事態が生じているのか。

 

 

 私たちは英語以上に国語の勉強時間は長かったはずである。小学校から高校、大学入試までかなり勉強はしてきたはずである。

 

 それなのにセンター試験の結果から英語力と国語力との間に差がなくなってしまっている。

 

国語の勉強が国語の勉強になっていない

戦争文学を国語で指導するのは、戦争の悲惨さを伝えるためでしょうか。ある職業の実態を知る文章を読んで、いろいろな職業があると気づくためでしょうか。科学の説明文を読んで、科学の知見を広げようというのでしょうか。

たしかにそれもあるかもしれません。けれども、これでは国語は「道徳」や「理科」や「社会」になってしまいます。

つまるところ、学校では「言語をあつかう技術」を子供たちに身につけさせていないのです。言うならば、国語の授業が、他の教科、道徳や社会や総合的な学習の時間になってしまっています。

国語以外のすべての教科は、国語の基礎の上に成り立ってると言っても過言ではないのですが、その国語が、「思考するための方法」ではなく、「なんらかの価値観」を押し付ける教科となってしまっています。ー『12年間も勉強してなぜ国語ができないのか』より引用

 

 

 すべての学習の土台となる国語の勉強方法が、学校という教育現場でもしっかりと確立されていないうえに、悪しき結果としてなんらかの価値観を押し付けるものになってしまっている。

 

 これでは他の教科の学力が伸びるわけがない。日本人は英語「だけ」ができないのではなく、そもそもすべての教科の土台となる国語の力があまり育っていないので、他の教科も伸びないことがわかる。

 

 そういう意味ではまず国語の勉強を教育現場から改善していくべきではないか。この事実に向き合うことなく、むやみやたらに「日本人は英語ができない。だから英語の力を徹底的に伸ばさないといけない。英語の授業を英語で」という世論を形成させようとするのはこの国の教育を滅ぼすことになりかねない。

 

 まず基本的な読み書きや読解をしっかりと行わせるべきだろう。

 

英語を話せることよりもまず基本的な計算ができることのほうが大事

 読み書きと基本的な読解同様、基本的な計算ができることも本当に大事である。自分の買った商品の合計の金額がわからないとか論外であるし(さすがにそのレベルの人と出くわしたことはないが)、割合や利益などの計算ができなければ、会社の経営などはうまくいかない。

 

 それに数学的な思考できることによって、会社に蔓延る非効率や不合理を一掃することができる。理論上は。

 

 もちろん会社は一人の人間の意見よりも一部の人間たちの利権が優先されるので、数学的思考は役に立たないのであるが。

 

 結局、日本の労働環境の劣悪さが改善されないのはこのように基本的な読み書き、計算ができない人が一定数いるからではないのだろうか。

 

 別に難しい文章題の計算とか証明の問題とか微分積分とかはできなくてもいいが(もちろんできたほうがいいが)、基本的な計算などはできなければいけないと思う。

 

 そうしなければAIなど最新のテクノロジーを導入したとしても使いこなせず、時代に取り残されることだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お金と知性の関係

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 無知は人間の品位を落とす。しかし人格の下落が始まるのは、無知な人間が金持ちになったときだ。

ショーペンハウアー:『読書について』より引用

 

 「お金持ち」と聞くと、どのようなイメージを連想するだろうか。

 

 ・「品位があり、物腰が低く、周囲に対し献身的」なお金持ち

 

 ・「強欲で周りにどんな迷惑がかかろうと気に掛けない」お金持ち

 

 多くの人がお金持ちなるものに対して抱くイメージはおそらく上の2パターンだろう。しかしこのお上品な金持ちと下品な金持ちには決定的な違いがある。

 

 その違いというのは何なのか(と言いつつ、でかでかと目立つように最初に書いちゃった)。

 

 

 

品がない強欲な金持ちの特徴

 上記の記事によれば、金持ちにみえる似非金持ちにはある特徴があるという。

 

 それを要約すると、マナーが悪い、面倒くさがるというものらしい言うならば「面倒くせー」お客である。接客業に従事している人ならなんとなくわかるだろう。

 

 

 マナーが悪いというのはホテルの備品を壊したり、部屋に落書きをしたり、大声で騒ぐというもの(上記の記事を書いた著者がホテル勤めであるため)。

 

 面倒くさがるというのは自分の名前を記入することすらウザがり、いちいちホテルの従業員にケチをつけてくるというもの。

 

 「こんな人たち」が似非お金持ちの特徴である。

 

 お金持ちは別に品がなく、強欲な人間であってもなれてしまうのだ。ただそのようなタイプの人間はその性格ゆえ、最終的には自分の身を滅ぼしてしまうのであるが。

 

品のあるお金持ちの特徴

 品のあるお金持ちの特徴はDQNな金持ちのような行動を取らないことだ。こんなの当たり前すぎるのだが、世の中はそうも単純ではないのだ。

 

 

 また、自分の発した言葉の影響力を考えるというのも特徴だ。これは上記の記事の著者の意見である。

 

 この記事を書いていて思うのは「当たり前すぎやん!」ということだ。が、それがわからない人が世の中に一定数いるのだ。

 

 ただ、もう本当に当たり前すぎるので、まとめに入る。

 

真のお金持ちと似非お金持ちを決定づけるもの

 結局のところ、知性の差であろう。別にこれは勉強ができるとか学歴があるとかそういう類いのものではない。

 

 しっかり周りの状況を見れるかどうか、人間関係を円滑にこなしていけるか、自分の行動、発言の影響力をわかっているかどうか、これらのことを理解できている人が真のお金持ちであると言える。

 

 そういう意味で「人格の下落が始まるのは、無知な人間が金持ちになったとき」なのである。

 

 もしお金持ちになりたがりな人がいたら、上記の記事やこの品のないDQNブログを参考にしていただければ多いに参考になると思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

読書のしすぎで成績が低下するらしい

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 過ぎたるは及ばざるがごとしとはよく言ったものである。記事によれば、読書をする時間が長いほど勉強の成績が下がるらしい。

 

 一般的には読書はよいものとされている。読書をすることで語彙力や読解力が伸びるというのも事実ではある。

 

 ということは読書をすればするほど成績は伸びるのではないか

 

 そう思う人が圧倒的であろうと思う。だが、そんなに単純な問題ではないようだ。なぜ読書をする時間が長くなるほどに成績が下がってしまうのか。

 

 

読書のしすぎで成績が下がる理由

「2時間以上」読書をする子ども達は「1~2時間」読書をする子ども達よりも成績が落ち込んでいたのです。当初、私たち研究者は、「読書はすればするほど学力によい影響を与えるはずだ!」と予想していましたが、その仮説は覆され、私たちにとっても意外で興味深い結果となりました。 なぜ「2時間以上」読書をする子ども達の成績が落ち込んでいたのでしょうか? 私たちは読書の時間と引き換えに、その他の活動時間が削られているのではないかと考えました。

 読書時間を確保するということは、成績へよい影響があることが知られる、勉強や睡眠など別の活動時間を間接的に奪ってしまうということにつながる恐れが生じます。そうすると、読書が学力に与えるよい影響と、別の活動時間が削られるといった間接的な悪い影響を足し合わせた結果、悪影響が勝ち残ってしまう可能性があると考えられるからです。ー「本を読まない子はバカになる」という話は科学的に実証できるかより引用

 

 要は読書をしまくる結果、睡眠時間や学校の勉強時間がなくなってしまうから、ということである。

 

 睡眠時間が確保できなくなるのは多くの人が納得するだろう。昔のような「四当五落」では勉強の内容が定着しないのである。

四当五落は昔のこと | 睡眠健康大学

 ↑四当五落の意味がわからん人はクリック!

 

 

 では勉強の内容そのものに関してはどうだろうか。読書をすればするほどに読解力、語彙力ともに向上し勉強に良い影響を与えるのではないのか。

 

 当たり前のことだが、勉強は問題に対する答え方であったり解答のテクニックであったり、「点取りゲーム」的な要素がある。

 

 「点取りゲーム」ということは、知識を身につけるとともにそのスキルを身につけなければならない。

 

 読書だけではそのような知識、スキルを得ることはできない。もし読書だけやりまくり、成績もそれに伴って伸びるなら世の中から参考書や問題集などが消えるだろう。

 

 そもそも学校で使っている教科書、問題集もいらなくなる。

 

 そういうわけで読書をすることと成績を伸ばすという行為は似て非なるものなのである。

 

読書×勉強が最強

 読書だけやっていても成績は伸びない。が、既に言及したように読書をすることによって語彙力がつき、読解力が伸びる。

 

 そういう性質を利用すれば、勉強をすることがラクになる

 

 

 教科書や参考書や問題集に書かれてあることが容易に理解できるようになる。それも単なる丸暗記ではなく、論理を追って理解することができるようになるので、数学(算数)や理科などの科目にめっぽう強くなる。

 

 このことは後の人生に大きな影響を与える。数学や理科が得意なことによって進路選択の幅が広まるし、ひいては職業選択も幅が広がる。

 

 もちろん理系科目だけでなく、文系科目も論理をもってして理解するので、暗記に頼って勉強している人よりも成績優位になる。

 

 今までは理解とか論理などの面で優位に立てることを述べてきたが、知識面でも優位に立てる。

 

 自分が読んだ本の内容とかが、教科書や参考書にでてくると記憶の定着率が高くなる。ということは単に勉強だけやっている人よりも知識の深さが違ってくる。

 

 したがって読書×勉強を実践することによって、論理的な力がつくことに加えて、知識も増えていく。まさに最強である。

 

勉強をしても読書をしなければ成績が上がらない

 過ぎたるは及ばざるがごとしである

 

 

中学生を平日の勉強時間別に3つのグループ(「30分未満」「30分~2時間」「2時間以上」)に分けて調べてみました。すると、「勉強2時間以上・読書全くしない」子ども達の平均偏差値は50・4でした。つまり、どんなに勉強を頑張っても、読書をしないとほぼ平均点までしか届かないという見方もできます。 一方、「勉強2時間以上・読書10~30分」群の子ども達の平均偏差値は53・6。勉強に加えて1日たった30分の読書を取り入れるだけで、偏差値が約3もアップする可能性があります。一日30分であれば、例えば学校の昼休み、家で夕食ができ上がるのを待っている時間、食後の休憩時間などに10分ずつでも本を読めばすぐに達成できる簡単な目標ですよね。

 

 この結果は非常に興味深い。いくら勉強をしても読書をしなければ偏差値が50.4と平均レベルの程度にしかならないのである

 

 おそらく勉強だけでは論理力をつけるのに限界があるのだろう。それに書かれている言葉にリアリティを感じなければ理解が困難になるのだと私は思う。

 

 これって私が以前言及したタワマンの上層階に住む子どもが成績が上がらないのと似ているような気がする。

 

www.whatithinkandfeel.net

 

 タワマン上層階の子供はあまり外にでないので、自然に触れることが少なくなる。そうなると理科などの勉強でリアリティがないゆえ、理解が困難になる。

 

 要は自分の知っていることとリンクができないので理解できないのである。読書と勉強も同じである。結局読書などである程度言葉や知識がついているので、教科書に書かれていることを自分のその知識や言葉、つまり経験にリンクさせられるのである。

 

 そう考えると、勉強だけやって成績を上げることは残酷ではあるが、無駄な努力と言えよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒りと論理

 怒ることは簡単だ。

 

 なぜどこの職場にも怒りに身を任せて部下をいびり倒す人がいるのか。昨今はパワハラに関するニュースが話題になっているが、当面なくなりそうもない。

 

 怒りまくる、切れまくる人間というのはいつの時代も存在する。

 

 そもそもどうしてわざわざ怒るという、とりわけメリットのない行動を犯してまで部下を指導するのか。

 

 

 

論理的思考が欠けている

 怒るという行為は莫大なコストがかかる。まず自分の持っているエネルギーがなくなる。そりゃそうだろう。怒りは日常的に起こり得るものではない。

 

 そんなことをすれば世界は怨念だらけになり、争いが絶えない世の中になってしまう。

 

 それに周囲の人間関係にも悪影響を与える。誰だって怒りまくる人間となんて付き合いたくはないだろう。ゆえに怒れば怒るほど自分が周囲と孤立していくのだ。

 

 集中力も欠いて仕事のパフォーマンスにも影響を及ぼす。怒っている状態は常にイライラだ。そんなんで仕事に集中なんてできるわけがないだろう。なんだかあほらしくて書くのもバカバカしくなる。

 

 したがって怒るというのはこんなにもコストを使うのである。

 

 それにも関わらずどうして怒りまくるのか。

 

 怒ることは簡単である

 

 

 考えなくてもいい。自分の感性を信じて突き進めばそれでいいのである。いちいち面倒なことを考えなくてもいい。そういう面から見るとコストはかからない

 

 自分の感性を信じて怒る人からすれば、いちいち感情を抑え、論理立てて相手を注意する方がコストがかかるのだ

 

 つまり論理的思考が欠けているのだ。このようなタイプの人は考える作業があまり得意ではないと思われる。何か自分の身に問題が生じたら、それを分析するのではなく、「まじうざってー!!ふざけんなや」という言葉で片づけてしまう。

 

 確かにこれはラクな作業だ。分析するのは時間がかかる。一方「まじうぜー!!」で片づけると秒で問題は解決したことになる(もちろん問題なんて何一つ解決してないのだが)。

 

 以上のことを考えてみると、怒るという行為は、論理的思考に欠けた頭の悪い人間がする行為であると考えるのが普通である。

 

 しかし怒るというのはそんなに単純なことではない。他にも理由があるのだ。

 

意図をもって怒る人

 論理的思考が欠落した、頭の弱い人間だけが怒るわけではない。中には論理的に状況を考え意図をもって怒る人もいるのだ。そのような人は非常に賢い。

 

それ以外にも、上司が部下を戦略的に怒ったり、怒鳴ったりするケースがあります。たとえば部下が取引先とのやり取りでミスをしてしまった。何とか取引先に謝り穏便に済ませたい時にどうするか。こういう時に直属の上司が出てきて、取引先に謝りながら、彼らの前で部下を怒鳴りつける。……すると取引先の人は「まぁまぁ、部長さん、そんなに怒らないで下さい」と、「悪気があったわけじゃないんだし」となんとか収めてくれる。-『人に強くなる極意』p.19より引用

 

  この引用から、何かしらの意図をもって怒る人もいることがわかる。このタイプの人は、あえて怒ることで結果として良い方向に状況が向かうように考えているのである。

 

 

 意図をもって怒れる人は賢い。怒った結果、どのような状況になるかをしっかり考えたうえでそのようなことができるのだから。

 

 したがって、知的な人が意図的に怒るというケースがあるので、怒る人間全てを悪者扱いにするのは賢明ではない。

 

 ただブラックな職場だと圧倒的に感情任せに怒る人間が多いのは事実だが

 

 なのでもし怒られたり注意されたりしたら、その人が意図をもって怒っているのか、それとも感情の赴くままに怒っているのかを、私たちも分析しなければならない。

 

 前者であるなら、真摯に受け止める必要がある。言われたことを聞き入れ今後の人生に生かせばいい。

 

 一方後者であるなら、disればいい。もうそれしか考え付かない。ただ、そのような怒りが毎日続くなら会社に相談するなり、部署を変えてもらうなり、最終手段、退職するなりを考えるべきだ。

 

 相手が何をもって怒っているのかをしっかり考えていこう。

 

自分が指導する立場ならどうするか

 というのが実は一番難しいのかもしれない。もちろん冷静な感情をもって、やらかした部下を対処するのが妥当な手段ではある。しかし、その部下の頭が悪すぎたらどうするか。

 

 言われたことを理解しない(理解できないのではなく、理解しない)、なんど言ってもちゃらんぽらんな行動を繰り返す。いわばDQNな部下であったならどうするか。

 

 そうであるなら、意図をもって怒るという手段が極めて有効的となる。DQNは感情に強く訴えなければ行動が変わらないのだ。

 

 ただこれはDQNに対する対処である。部下が普通の人間であるなら冷静に対処すればよろしいと思う。

 

 相手も言われたことをしっかり聞き入れるだろうし、そうやって冷静に指摘してくれたほうがいろいろ面倒にならず、自分の悪い点を修正できる。

 

 論理なき怒りはただの野蛮であり、論理ありの怒りは叡智である

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遊ぶことを忘れると老いて枯れる


スキマスイッチ / 全力少年

 仕事一筋真面目な人間も悪魔に負ける。

 

 会社や公務員の人たちが、不祥事に手を染めるというのは別に不思議なことではない。テレビやネットなどではそのような記事はよくある。

 

 そのような記事を読んで私たちが思うのは「なぜこのような安泰な身分が保証されていながら、こんなことをするのだろう」ということである。他にも「エリートな道を進んできた人たちがなぜこんなことをするのだろうか」などなど。

 

 そこであることに気づく。

 

 あれ、真面目系な人ほど悪事に手を染めてない…?

 

 そう、悪いことをするのは決して暴力的な犯罪者だけではないのだ。

 

 Why Japanese diligent(勤勉な)people!!!???

 

 

 

遊ぶことを忘れている

 日本の労働者や公務員はとても忙しい。余暇の時間を十分に確保できてない人もいるだろう。つまり遊ぶ時間がほとんどない。遊ぶ時がないというのは老いて枯れるというのは全力少年だが、要はストレスのはけ口がないのだ

 

 余暇の時間がないというのは本当にきつい。ただでさえ日々好きでもないことを全力でこなさなければならないのに、それでいてくつろぐ時間がないというのはもはや拷問である。

 

 そらストレスたまって会社とか役所の金を着服したくなるわ。

 

 本来私たちはそのような不祥事とは縁がない全力少年であった。そう、社会に出て働き始める前は

 

 

 学生の頃は部活や学校行事などで充実した毎日を送っていた。長期休暇になると旅行に出かけたり、バイトをやったり、部活やサークルの練習などに精一杯打ち込んでいたのである。

 

 それが高校や大学を卒業すると、そのような充実した日々とは断絶した世界に放り込まれる

 

 まず世界がモノトーンになる。毎日変わらないルーティンを繰り返す日々を送る。決まった服装(つまりスーツ)、決まった出勤時間、変わらない人間関係、決まった終業時間(全然決まってない・守らない)、決まった休日(それを守らない企業もある)。

 

 こういう世界に身を置いていればそもそも遊ぶかどうか以前に老いて枯れることがわかるだろう。

 

 それでもフットワークが軽い人はなんとか遊ぶ時間を見つけ、カラフルな世界を見出すが、真面目一辺倒な人は追い込まれ身を亡ぼすことになる。

 

 かくして金の着服、性犯罪に手を染め、彼らは独自にカラフルな世界を作ることになる。いろんな意味で。

 

融通が利かない

 これは多くの人がわかっていることだろう。何か書くのもあほらしいが。

 

 融通が利かないゆえ、いったん思い悩むと袋小路にはまり、そこから抜け出せなくなる。特に男性は人に相談するということをあまりしない生き物なので、そういう状況になると危険である。

 

 なので配偶者や彼女がそのような兆候のようなものに気づき対処しないと、真面目な男たちはおかしな全力少年となる。

 

 

 真面目であることは確かに世間一般的には有益である。手を抜かず全力で仕事にとりかかってくれるし、簡単に約束をすっぽかすことがない。なので社会的信頼も高まる。

 

 が、そのような性格は非常にもろく崩れ去ることも忘れてはいけない。

 

対策

 

 趣味を見つける、心の余裕を持つ、世の中は不条理なものと受け止める(だからと言って社畜マインドになってはいけない)。辛かったら辞めてもいいという考えも持つ。

 

 ありきたりであるが、これらのことをできない人が多い。特に辞めてもいいというのは特に日本人はためらってしまうような気がする

 

 日本の労働環境が劇的に良くなることは可能性としては低い。なので社会に変化を求めるのはあまり賢明なことではない。

 

 労働環境が悪ければ転職するなり、独立するなり自分で行動していくしかない。

 

 趣味を持つのは比較的簡単だ。スポーツであったり、読書であったり、カラオケだったりいろいろある。どこかにストレスを発散する場所を見つけないとパンクしてしまう。

 

 読書やカラオケは対して金がかからないので趣味としてはコスパが良い。もちろん本が好き、歌うのが好きという前提条件はあるが。

 

 結局言えることは趣味などなんでもいいが様々な世界を知ることが最善の対策だろう。

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思考を変えなければ働き方は変わらない

 当たり前なのだが、現在は「働き方改革」なるもので働き方が真剣に議論されている。その中でAIなどのテクノロジーは労働者の労働時間を短縮し、人々の生活を豊かにする、というような話はネットのニュースを見れば腐るほど目にする。

 

 現にそのようなテクノロジーを導入して効率化を図っている企業もあるだろう。

 

 しかしふと思う。本当にそれで社会全体の労働環境は変わっていくのかと。そもそも「働き方改革」を進める上でテクノロジーはそれほど重要なのか。

 

 

 

労働者の思考が変わらないと「働き方改革」は起きない

 いくらAIなどが仕事を効率化しても、結局のところ労働者の思考が変わらない限り労働環境は変わらない。確かに昔と比べると労働環境は良くなっているかもしれない(高度経済成長とかバブルとか)。

 

 しかしいまだに旧態依然とした非効率な労働は残っている。それは後を絶たない過労自死ニュースを見れば明らかだ。それも誰もが知っている大企業で起こっている。福利厚生が良い大企業ですらそうなのだ。他の中小企業ではなおさらであろう。

 

 当然だがこのような悲劇は労働環境が劣悪だからこそ起きるものである。いまだに働くということに対する考えや姿勢が変わっていない人がどの職場にもいるのだ。

 

 こんな状態で最新のテクノロジーを導入したところで労働環境が良くなることはないだろう。テクノロジーを生かすも殺すも人間次第である。効率化を軽視あるいは無視をして「勤労の美徳」を重んじるようでは、根本的な問題は変わらない。

 

思考を変えない労働環境の「未来予想図」

 「何年たっても変わらぬ気持ち」で働いていては労働環境が変化することはない。

 

 

 働くことに対し過剰な信仰を抱くことは単に「わがままばかりで困らせる」だけである。

 

 これからは少子化が進み労働人口は減っていく。そのような社会で今のような働き方をしていては、この国はもはや絶望的な未来しかやってこない。

 

 どんなにテクノロジーの発展に期待したところで、労働者の思考が変わらない限り、理想的な働き方、および個人のライフスタイルの実現は「思ったとおりにかなえられて」はいかないのである。

 

 したがってまずは労働者の思考を改めていかなければいけない。仕事は人間と対等な関係である。仕事が人間よりも優位であれば、私たちはその仕事に翻弄されるだけである。

 

 そうならないためにも、AIでどの程度やらなくていい仕事が生じるか(そもそもそれは人間がやらなくていい可能性が高いのだ)、時間はどれほど短縮することができるかなどを考えていかなければならない。

 

 そうやっていろいろ考え仕事をこなしていけば、1日のうちでやらなければいけないノルマとか実は8時間(社畜はほぼ毎日over 10 hours)もないことがわかる。

 

 労働者の思考を変えていくことが重要だ。

 

考えさえ変えればいくらでも労働環境は良くなる

 見方を変えれば、労働者の思考さえ変わればタイトルの通り、労働環境はいくらでも良くなるのである

 

 

 というか本来「働き方改革」なるものは働く側の考え方にかかっているのに、なぜか「AI活用で業務を改善」に問題がすり変わっている。

 

 こういうところから、いかに支配者たちが労働者を馬車馬のごとく働かせたいのかがわかる。私たちの生活が良くなったら都合が悪くなる人間が一定数いるのだ。

 

 それでも今後の社会環境を考えれば、真の「働き方改革」を進めなければならない時はくる。というか今がその過渡的な時期であると思う。

 

 非効率な、不合理な労働を人間の思考によって変えていく必要があるのだ。